彼が私の手を握ったのは、別に特別な場面ではなかった。駅の改札前で、ちょっと待って、と言いながら、何気なく。

それなのに、なぜか目の奥が熱くなった。泣きそうになった。泣く理由なんてどこにもないのに。

「どうした?」と聞かれて、「なんでもない」と答えた。本当に、なんでもなかった。ただ、触れてもらっただけなのに。

「触れる」ことが、こんなにも怖い理由

好きな人に触れてもらうと泣きそうになる——この感覚を持ったことがある人は、少なくないと思います。でも、なぜそうなるのかを言葉にできる人は、あまりいない。

触れてもらうことは、本来は安心の行為のはずです。肌が触れ合う、体温が伝わる、存在を確認できる。なのに、好きな人の手が近づくと、どこかが震えるような感覚になることがある。

私が思うのは、それが「受け取ること」への怖さなのかもしれない、ということです。

誰かを好きでいるとき、私たちは常に「与える側」でいることで自分を守っています。好きだから連絡する、好きだから会いに行く、好きだから笑う。でも「触れてもらう」という行為は、受け取ることを強制されます。自分が何かをする前に、相手がもうそこに来ている。

その「来ている」事実に、心が追いつかなくなる。泣きそうになるのは、感動ではなく、追いつけない自分が溢れてくる感覚なのかもしれません。

返信が来ない日、なぜあのLINEを読み返すのか

触れることと、待つことは、同じ場所から来ている気がします。

彼の返信に時間がかかる日、私はなぜか昔のLINEを読み返します。特に意味のない会話。「今日何食べた?」「最近どう?」——そういう、何も決まっていないやりとりを。

読み返すのは、「彼は私のことを考えていたか」を確認したいからだと思っていました。でも違う気がしてきた。読み返すのは、「あのとき自分は確かにここにいた」を確認するためなのかもしれません。返信が来ない今、自分の存在が揺らいでいくような感覚を、過去のやりとりで留めようとしている。

触れてもらうと泣きそうになることと、LINEを読み返すことは、根っこが同じです。どちらも「あなたに存在を認めてほしい」という感情の、別々の形をした表れだと私は思っています。

感情が大きいほど、受け取るのが難しくなる

好意の薄い相手に触れられても、泣きそうにはなりません。それほど緊張もしない。触れてもらっても、ただ触れられた、と感じるだけです。

泣きそうになるのは、その人のことを深く好きだから。感情の総量が大きくなればなるほど、受け取れる量は逆に小さくなる気がします。好きであることが、感情の器を満たしてしまっていて、小さな出来事でも溢れてしまう。

だから、好きな人に触れてもらうと泣きそうになることは、恥ずかしいことでも、おかしいことでもないと私は思っています。それはただ、あなたの感情が本物だという証拠です。

あの夜、手を握られながら泣きそうになったことを、私はまだ彼に話していません。

「なんで泣きそうになったの?」と聞かれたら、うまく答えられないから。「好きだから」とだけ言っても、この感覚の全部は伝わらないから。

それでも、あの手の温かさは覚えている。返信が来ない夜にLINEを読み返すより、あの温度を思い出す方が、ずっとましだと気づいた。
🌙

霧島夜子

官能小説家・エッセイスト。婚外恋愛と複数愛の記録を書き続けています。感情の細部を言語化することが、私にできる唯一の誠実さだと思っています。