夫が選んだ相手と、
三日間だけ
「三日間だけ自由になればいい」——夫にそう言われた夜、私は返事ができなかった。翌日、夫が選んだ見知らぬ男のホテルの部屋にいた。罪悪感でも解放感でもない、もっと複雑な何かを抱えながら、私は三日間を過ごした。
凪いだ夜の密約
夫に「他の男と寝ていい」と言われたのは、火曜日の夜だった。
特別な日じゃなかった。ハイボールを飲みながらテレビを見ていた。七年間、何百回と繰り返してきた夜と、何も変わらなかった。
「三日間だけ。俺が選ぶ」
夫は画面を見たまま言った。私は返事ができなかった。
冷蔵庫がうなっていた。氷がグラスの中で溶けていった。夫の耳が、わずかに赤かった。
「戻ってきてくれればいい。それだけでいい」
愛している、とは言わなかった。でもそれは、愛しているから言える言葉だと分かった。
私たちは結婚して七年になる。子供はいない。互いに望んだわけでも、避けたわけでもない——気づいたらそういう夫婦になっていた。喧嘩は少なく、会話はそこそこある。夫婦の形は保たれていた。
ただ、私たちはもう、互いのすべてを知り尽くしていた。
「愛してるけど、刺激がない。俺たちが欲しいのは安心感だけじゃないだろう」
夫はテレビを消した。部屋が静かになった。
「俺が全部準備する。お前はただ、三日間を生きてきてくれればいい」
夫が部屋を出た後、私は一人で冷めたハイボールを飲み干した。鏡の中の自分を見た。頬が少し赤かった。
それは、いつからか忘れていた顔だった。
見知らぬ指先の体温
翌日の昼下がり、私は夫が選んだホテルの一室にいた。
スマートフォンに届いたメッセージには、部屋番号と「お待ちしています」の一文だけがあった。夫が全部手配した。写真で見た男は、端正で、どこか危うい色気があった。
「あなたが、理恵さんですね」
低く、少し擦れたような声だった。写真よりも体格がよく、仕立ての良いシャツから清潔な香りが漂った。
差し出された手に自分の手を重ねた。夫の手とは違う、指先の硬さ。見知らぬ男としての個性が、私の感覚を研ぎ澄ませていった。
「お互いの名前を呼ばないことにしませんか」
彼はそう提案した。私は頷いた。
夫との日常には常に名前があった。氏名と肩書き、そして役割。でもここではそれらが不要だった。
「今は、ただの男と女になればいい」
彼の手が私の頬に触れた。耳の下からゆっくりと首筋へ降りてくる。その動きに従って、私の呼吸が乱れた。
夫の体温は知っている。これは知らない体温だった。
だからこそ、全身が反応した。
夏の夜の蜜事
彼は急がなかった。
カーテンの隙間から夏の光が差し込んでいた。部屋の空気は冷えていて、でも彼の体温は熱かった。
私は自分がどれだけ飢えていたか、その時に初めて分かった。愛情ではなく、触れられることへの渇望。名前を知らない人に求められることの、奇妙な解放感。
彼の手が背中をなぞった。夫には決して出せない、探るような動きだった。
「どうしたいか、自分に聞いてください」
彼の声が耳元で響いた。私は自問した。でも答えは出なかった。
ただ、彼の手のひらから伝わる熱が、私の冷え切っていた部分を溶かしていくことだけは分かった。
「すべて、あなたに委ねます」
私の声が震えた。彼は満足そうに目を細めた。
窓の外で蝉が鳴いていた。夏の光がカーテンを透かしていた。時間が、ゆっくりと流れた。
濡れた肌の記憶
三日間は、思ったより早く過ぎた。
一日目は緊張が勝った。二日目は、緊張が溶けて別の何かが顔を出した。三日目は、終わりを惜しむような気持ちと、早く帰りたい気持ちが、同時にあった。
最後の夜、彼は「また会えますか」とは聞かなかった。それが正しいと思った。
「三日間、ありがとうございました」
彼の言葉は丁寧だった。私も頭を下げた。
ホテルを出ると、夏の夕方の空気が肌に触れた。汗が少し滲んだ。
スマートフォンに、夫からのメッセージがあった。「夕食、何食べたい?」
私はしばらくその文字を見つめた。それから「カレー」と打った。
夫は「了解」とだけ返してきた。
いつもの夫だった。三日間の間も、ずっとそこにいた夫だった。
扉の向こうに咲く花
三日間が終わって、私たちの夫婦生活に何かが変わったかというと——そうでもなかった。
夫は何も聞かなかった。私も詳しくは話さなかった。「どうだった」と一言だけ聞かれて、「いろいろあった」と答えたら、夫は「そうか」と言ってテレビを見た。
それだけだった。
でも何かが変わった。夫の手が、久しぶりに私の手を握った夜があった。特別なきっかけもなく、テレビを見ながら。私は驚いて、それから黙って握り返した。
あの三日間が正しかったのかどうか、今でも分からない。罪悪感は残っている。でも、あの夏の体温も残っている。どちらも本当のことだ。
私たちの扉の向こうに何があったのか——それは私だけが知っている。
夫はそれを選んだ。私はそれを生きた。
それだけのことだったのかもしれない。それ以上のことだったのかもしれない。